カスタマーハラスメント対策が事業主の義務になる
近年、小売・飲食・サービス業の現場では、顧客や取引先からの過度なクレーム、暴言、長時間拘束、土下座の強要といった「カスタマーハラスメント(カスハラ)」が深刻な労務問題として認識されるようになった。厚生労働省の検討会での議論を経て、労働施策総合推進法(いわゆるパワハラ防止法)の枠組みを拡張する形で、顧客等からの著しい迷惑行為に対して事業主が防止措置を講じることを義務付ける改正が進められており、2026年10月の施行が見込まれている。
これまでもパワハラ防止法は事業主に相談窓口の設置や再発防止の指針整備を求めてきたが、対象は主に社内(上司・同僚)からのハラスメントに限られていた。今回の改正は、対象を「顧客・取引先等の第三者」からの著しい迷惑行為にまで広げる点が最大の変化であり、テナントで接客業を営む事業者にとっては、これまで「お客様は神様」的な対応で済ませてきた領域に、初めて明確な法的対応義務が課されることになる。
対応が必要になる業種とテナント経営への影響
影響が大きいのは、来店客と直接対面する業態、すなわち小売店、飲食店、美容室・サロン、コールセンター、窓口業務を伴うサービス業などである。特にテナント型店舗は、オフィスビルの受付のように来訪者を制限できる構造になっていないことが多く、不特定多数の客が出入りする分、迷惑行為が発生した際のスタッフの逃げ場や助けを呼ぶ手段が乏しいという構造的な弱点を抱えている。
事業主としては、単に「マニュアルを作る」だけでなく、実際に迷惑行為が起きた際にスタッフが安全に対応できる物理的環境を店舗に用意する必要が出てくる。これは内装工事や什器配置だけでなく、テナント契約時の物件選定そのものに関わってくる論点であり、出店計画の初期段階から意識しておくべきテーマになりつつある。
テナント選びの段階で講じておきたい防止対策
物件を選ぶ段階で確認しておきたいポイントはいくつかある。まず、レジカウンターやサービスカウンターの奥にスタッフ専用の退避スペースを確保できる奥行きがあるか。次に、防犯カメラの設置に対応した電源・配線を通せる天井裏や壁面があるか。さらに、複数のスタッフが同時に勤務できる十分な床面積があるか(1人体制の深夜営業などは迷惑行為発生時のリスクが特に高い)。
また、テナントビル自体の管理体制も重要な確認事項になる。ビル管理会社や大家が共用部への警備員配置、防犯カメラの共用設置、非常時の緊急連絡体制を整えているビルであれば、個店だけで全ての対策を負担する必要がなくなる。逆に管理体制が手薄な雑居ビルでは、テナント側が単独で全ての防止措置を用意しなければならず、コスト負担が重くなる点は契約前に見積もっておきたい。
店舗レイアウト・運用面での具体的な備え
物理的な対策としては、スタッフと客の間に一定の距離を確保できるカウンター設計、非常ボタンやインカムの導入、退避動線の明確化などが挙げられる。飲食店であれば厨房への客の侵入を防ぐ動線設計、小売店であればバックヤードへの入口の施錠管理も基本的な対応になる。
運用面では、迷惑行為が発生した際の対応フロー(まず何をするか、誰に連絡するか、どの時点で警察に通報するか)をあらかじめ文書化し、アルバイト・パートを含む全スタッフに周知しておくことが求められる。加えて、迷惑行為を録音・録画できる体制を整えておくことは、後のトラブル対応や、悪質な場合の法的措置の証拠確保という観点からも有効である。研修についても、単発の説明会で終わらせず、入社時教育に組み込んで継続的に実施する体制を作っておくと、法改正後の運用が安定する。
まとめ:法改正を機にテナント契約と店舗設計を見直す
カスタマーハラスメント対策の義務化は、単なるコンプライアンス対応にとどまらず、店舗のレイアウト設計やテナント選定の基準そのものを見直す契機になる。特に新規出店を検討している事業者は、内装工事の設計段階でスタッフの安全動線や退避スペースを盛り込んでおくことで、後から追加工事を行うコストと手間を避けられる。
テナントを探す際には、防犯カメラ設置の可否、共用部の管理体制、複数人体制を組める床面積の3点を目安に物件を比較検討することをおすすめしたい。制度対応と店舗運営の実務を両立させるためにも、契約前の段階で管理会社に防犯設備の現況を確認しておくことが、開業後のトラブルを未然に防ぐ最も確実な方法になる。
加えて、賃貸借契約の条項面でも見直しておきたい点がある。防犯カメラや非常ボタンなど新たに設備を追加する場合、それが原状回復義務の対象になるのか、退去時にどこまで撤去が必要になるのかは、事前に貸主・管理会社と書面で取り決めておくとトラブルを避けやすい。特に設備の造作を大家負担で行うのか、テナント側の造作として扱うのかによって、退去時の費用負担が大きく変わってくるため、契約書の特約事項として明記しておくことが望ましい。
法改正の詳細な運用基準は今後、指針(ガイドライン)の形で示される見通しだが、事業者としては施行を待たずに、できる範囲から対策を進めておく姿勢が重要になる。スタッフの安全確保は法令遵守の観点だけでなく、離職率の低下や採用競争力の向上にも直結する経営課題であり、テナント選定と店舗設計の両面から早めに着手する価値は大きい。
